【今村仁司】まったくヒラヒラしていない貨幣論
目次*1
お金のことは、昔から信用していなかった。モノの価値を体現しているつもりだろうが、「ほんとうの価値」との間にはビショ濡れシャツの不快感と同じくらいの齟齬がある。それなのに、そんな出来損ないの代理物が我が物顔で社会にのさばっているのが気に食わないのだ。
しかしあるとき、まぁラブストーリーでは定石だが、苦手意識の内には発芽チャンスが眠っているということを学び、自分はお金なるものをとても嫌っているので、そこをほじくり返してみようという考えになった。本書を手にしたのもそういう経緯からだった。今村先生の本なのだから、痛快だろう。表紙を見てみると、ちくま新書の第一冊目のようである。やるな筑摩書房。そういう気分で読みはじめた。
「貨幣の社会哲学的考察は、貨幣が社会関係のなかで果たす役割を考察するのはもとより、それ以上になぜ貨幣なるものが人間の社会関係のなかで生成するかを考える、いやむしろなぜ貨幣は人間関係の不可欠の媒介者になっていくのかを考える」(p.17)
貨幣とは何か。この問いに、経済学がやるように貨幣の素材や機能面から考察するのではなく、その存在の意味を問うという「哲学的」アプローチをとる。経済学が(価値尺度、支払手段、価値蓄積などと)貨幣の利便性をカウントしていくのに対し、この本は貨幣存在によって見え難くなっているもの、社会が封印しようとしているものを明かそうとする。そのやり方をあるいは、「貨幣を人間存在の根本条件から考察する」とも説明する。やはりこの貨幣、まったくヒラヒラしていない。ズシリと重い。
「人間が社会的存在であること(他人とともに生きるほかないこと)と、交換し貨幣を生み、また貨幣によって交換が複雑になること(制度化すること)は、同じことである。はしょっていえば、人間であることと、貨幣が存在することは、同一の事柄である」(p.68)
貨幣の利便性を裏返してみれば、「制度になった媒介形式がなければ人間の社会関係はけっして円滑には進行しない」(p.84)ことが見えてくる。不足があるから発達があるのだ。ルソーは媒介者を嫌悪したし、マルクスも媒介形式なき共同体を夢想したが、所詮、天使のいない我々の世界では、貨幣廃棄論の実践は数えきれない屍体の山しか築けていない。そういう意味でも、貨幣が人間を人間たらしめているのである。
「人間は、原初の距離化から生まれた死の表象を、物あるいは制度の形で外部化して、生と死の『近さ』の恐怖から解放されようとしてきたのである」(p.53)
動物にはけっしてないが、人間だけにあるものとは何か。それは死の観念である。「死の観念」を原初において距離化したのが人間である。死の犠牲を払って痛い目をみると人間は、デモーニッシュな混沌カオスを、理性的ノモスでコントロールして、コスモスを作り出そうとする。貨幣という制度、媒介形式が生まれたのもそのためである。だから、それが不完全で気に食わないといって、ノモスを無視しようとする者があれば、カオスがコスモスに滲み出してきて痛い目をみるのだ。
媒介形式としての貨幣は魔封波のお札に似ている。思い切ってそう言ってみる。ふむ、しかし、その喩えを良しとするなら、僕らが日々交換しているものは何になるだろうか。かめはめ波的世界観、またはペンギン村の日常とでも言うだろうか。
*1:
第一章 貨幣と死の表象
1 人間と動物
2 貨幣の社会哲学
3 媒介形式と死の観念
4 本書の見取り図
第二章 関係の結晶化ーージンメルの『貨幣の哲学』
1 貨幣の哲学的考察の意味
2 距離化と貨幣
3 文化の形成力としての貨幣
4 ジンメル貨幣論の特質
第三章 貨幣と犠牲ーーゲーテの『親和力』
1 貨幣小説について
2 媒介者
3 墓をいじること
4 関係の解体
5 罪なき犠牲
6 デモーニッシュなもの
第四章 ほんものとにせものーージッドの『贋金つくり』
1 父(ペール)あるいは父権(パテルニテ)
2 子供たち
3 文学における貨幣
第五章 文字と貨幣
1 文字と貨幣
2 ルソーの文字論
3 言語起源論について
4 距離化
5 文字の根源性
6 文字と死
エピローグーー人間にとって貨幣とは何か
あとがき
参考文献