じんじんする日々

気をつけているつもりでも、その「つもり」が及ばないところで、じんじんは日常的に生産されてしまう

【橋爪大三郎×大澤真幸】理不尽や不可解を担える存在

 

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 

目次*1

アメリカに住んでいるので、やっぱりアメリカのことをよく知りたい、自分なりに理解したい、そうでなければ現状が浮かばれないじゃないか。そういう思いで、内田センセイのアメリカ論に続き、手に取った本である。アメリカの紀伊国屋書店の新書コーナーには、こういう類の本が並べられている。どうも一定の共感を得られる、よくある思考のようである。

講談社現代新書は現在、同型色違い装丁を採用しているが、この本にはキラキラの金色が与えられている。そんな味気のないデザインの是非は置いておくと、推し、が感じられる表紙である。帯には高橋源一郎さんからこんな言葉が寄せられていた。

「読んだだけで、キリスト教が完全に理解できたような気がする、他に例のない恐ろしい本。とりあえず、ぼくのゼミの必読書に決定しました」

キリスト教を完全に理解できたような気になるほどの本から、無謀にもハイライトをつくってみた。高橋センセイ、どうですか? このくらいじゃゼミの単位は貰えないのでしょうか。 

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橋爪 一神教は、たった一人しかいない神(God)を基準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を視るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。(p.55)

この世界には、神に好かれる人もいるし、好かれない人もいる。人間の理解を超えた理不尽なこともおこる。しかし、一神教の神はそれ自体が基準なので、ほかの理由なしに、いついかなるときも正しいのである。神は世界でおきる一切のことの責任者であり、究極の原因である。人間が納得しないといって、わざわざ説明してやる義理はないのである。

人と対話可能というのも、この人格的Godの特徴だ。ただしそれは、人間がコミュニケーションの不可能性を受け入れるというコミュニケーションである。「祈り」と呼ぶ。人間を救うのは神であり、人間は自分で自分を救えない。人生における艱難辛苦は、神に与えられた試練として受け入れ、乗り越えていくことが期待されている。が、その通りに行動したとしても、救ってもらえるとは限らない。それがGod視点だ。

 

大澤 イエスは、律法を廃棄して、それを愛に置き換えた。ただ、律法を単純に否定し、排除したというより、むしろ、愛こそが律法の成就だということになっています。(中略)その愛のことを、「隣人愛」という。「隣人」と聞くと、身近で親しい人のことだと思うかもしれませんが、そうではない。罪深い人ととかダメな人とかよそ者とか嫌な奴、そういう者こそが、「隣人」の典型として念頭におかれていて、彼らをこそ愛さなくてはならない。(p.195)

ジョーゼフ・キャンベルがイエス・キリストの主要な教えとして挙げていたのが「隣人愛」だった。隣人愛のいちばん大事な点は「裁くな」ということ。人が人を裁くな。人を裁くのは神だからである。

不完全な人間は、神に与えられた「律法」を完全には守ることができない。それどころか眼前の律法の正しさに固執しすぎて、かえって神の意向に沿わぬ裁きを下したりもする。そこでイエスが現れ、律法を愛に置き換えた。愛も律法も、神と人間の関係を正そうとする努力であるが、愛には基準がないので、これで十分に愛したなどと人が慢心する心配が少ないのだ。

 

橋爪 キリスト教の優位については、いろいろに言えると思うのです。宗教改革も大事だし、新大陸の発見も大事だし、科学技術の発展や産業革命も大事だし、資本主義も大事だ。
 でも、最も根本的なところで、いちばん大事な点を取り出すとすれば、それはキリスト教徒が、自由に法律をつくれる点だと思う。(p.274)

なぜ、ユダヤ教やイスラム教といった他の一神教ではなく、キリスト教が世界の主導権を握ったのか。それはキリスト教徒が(その国家が)、自由に新しい法律をつくれたからだ。

たとえば「銀行をつくって、企業にローンを組ませる」というように、社会が近代化へ向けた具体的なステップを踏み出そうとしたときに、厳格なユダヤ教やイスラム教の場合、それが宗教法で「してもよい」正しいことに制定されているかしっかり確認・議論・再確認をしなければならないのだが、キリスト教の場合は、聖書で「してはいけない」と禁止されていないことは基本的にやっていいので、圧倒的にスムーズだったのだ。

そうなった要因の真ん中あたりに、「教会が法律をつくらない」ということがある。キリスト教の教会はもともと、ローマ帝国の任意団体でしかなく、そのような力を持っていなかった。それゆえ、ローマ帝国の法律(世俗法)に従いましょうということになり、立法権を占有するということがなかった。それが近代化には都合がよかったのだ。

 

   *   *   *

 

STAP細胞や号泣議員、スアレスの噛み付き行為ーー我々の社会を鑑みてみると、宗教の影響力が弱くなったせいか、人が人の罪を野方図に裁きすぎているという感じがする。犯した罪に対して世俗法によって罰が与えられることは、そりゃ当然理解するが、されども、彼らをこそ愛そうという声があがらないのは虚しいことだと思うのだ。

アメリカはどうだろうか。同じようなもんだっけ。

 

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追記:たまたまブログでSTAP細胞に言及したタイミングで、理研の笹井芳樹氏が自死した。会見の姿に研究者としての矜持を見て、美しく尊いものを感じていたので非常に残念に思う。俺たちが生きているのは、美しい花が咲いていられない泥の中なのか。宗教はなにをやっているんだ。まったく。合掌。

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ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

まえがき

第1部 一神教を理解するーー起源としてのユダヤ教

 1 ユダヤ教とキリスト教はどこが違うか
 2 一神教のGodと多神教の神様
 3 ユダヤ教はいかにして成立したか
 4 ユダヤ民族の受難
 5 なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか
 6 律法の果たす役割
 7 原罪とは何か
 8 神に選ばれるということ
 9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか
 10 ヨブの運命ーー信仰とは何か
 11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか
 12 神の姿かたちは人間に似ているか
 13 権力との独特の距離感
 14 預言者とは何者か
 15 軌跡と科学は矛盾しない
 16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰

第2部 イエス・キリストとは何か

 1 「ふしぎ」の核心
 2 なぜ福音書が複数あるのか
 3 奇蹟の真相
 4 イエスは神なのか、人なのか
 5 「人の子」の意味
 6 イエスは何の罪で処刑されたか
 7 「神の子」というアイデアはどこから来たか
 8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった
 9 キリスト教の終末論
 10 歴史に介入する神
 11 愛と律法の関係
 12 贖罪の論理
 13 イエスは自分が復活することを知っていたか
 14 ユダの裏切り
 15 不可解なたとえ話1 不正な管理人
 16 不可解なたとえ話2 ブドウ園の労働者・放蕩息子・九十九匹と一匹
 17 不可解なたとえ話3 マリアとマルタ・カインとアベル
 18 キリスト教をつくった男・パウロ
 19 初期の教会

第3部 いかに「西洋」をつくったか

 1 聖霊とは何か
 2 教義は公会議で決まる
 3 ローマ・カトリックと東方正教
 4 世俗の権力と宗教的権威の二元化
 5 聖なる言語と布教の関係
 6 イスラム教のほうがリードしていた
 7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合
 8 なぜ神の存在を証明しようとしたか
 9 宗教改革ーープロテスタントの登場
 10 予定説と資本主義の奇妙なつながり
 11 利子の解禁
 12 自然科学の誕生
 13 世俗的な価値の起源
 14 芸術への影響
 15 近代哲学者カントに漂うキリスト教の匂い
 16 無神論者は本当に無神論者か?
 17 キリスト教文明のゆくえ

あとがき

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