仮題「領事館」・書き出し
「もしかして、領事館をお探しですか?」
パスポートの更新のために、久しぶりに市内まで出てきたら、見事に道に迷ってしまった。住所を確認しようと検索してみたが、ネットがなかなか繋がらず、ウロウロウロウロうろたえていたところ、見知らぬ男に声をかけられた。
「そうなんです。たしか、この辺だったと思ったんですけど……」
記憶とマッチしない風景を見回しながら返答し、男のほうに視線を向けた。
日本語を流暢に喋る、背の低いアジア人だ。髪は横分けで大きめのメガネを掛けている。小ぎれいにしているが、茶色いジャケットは古びていて積年の匂いが染み込んでいそうに見える。
「領事館は、最近移動したんですよ。ほら、この辺は土地開発が盛んだから」
その言葉どおり、あたり一帯は、二年前と同じように、あちこちで大掛かりな工事が進められていた。いつ弾けるともわからないバブル景気の中、新興企業が自分たちの現在価値を誇示しようと、競い合うように風変わりなビルを建てている。
「ちょっと向こうになりますよ」
男はそれが自分の仕事であるとでも言わんばかりに、隙のない流れで移転先までの道案内を買ってでた。私は、見知らぬおじさんと街を散歩する趣味はないので、とても断りたかったのだが、領事館に行く必要はあるし、彼の親切を断るということが、彼の文化においてどれほどの失礼にあたるのか計り知れなかったので、「わざわざ、そんなことまでしていただいて、すまんですね。ありがとうございます」とお礼を多めに言いながら、彼の道案内を受け入れることにした。
新しい領事館までは、想像以上に遠かった。こんなに歩くなら、バスかタクシーを使いたかったよ。途中で「あとどれくらい歩くんですか?」などと質問もしたのだが、親切おじさんは不器用で、歩き出すとあまり喋らなくなるみたいだった。横断歩道で信号待ちをしているときに、「なに、もうあと数ブロックですよ」と言ってから、さらに20ブロックほど歩かされた。計算も得意じゃないみたいだ。
幸い、その日は暑くも寒くもない一日だったが、30分以上歩いてきたため、火照った体から汗が滴り落ちるほどになっていた。新しい領事館に到着した。いや、その移転先はまったく新しくなかった。市内でも有数の古ぼけたビルだろうと思われた。
「ここ、ですか?」
「はい。こちらの6階です」
看板らしきものは見当たらなかった。
「エレベーターは奥にあります。では、私はここで」
「あ、ありがとうございました」
エレベーターのほうに目をやっていたら、気付いたときにはもう男の姿は見えなくなっていた。お礼の言葉は届いただろうか。