じんじんする日々

気をつけているつもりでも、その「つもり」が及ばないところで、じんじんは日常的に生産されてしまう

【山﨑努】その目は、存在理由を問うている

 

俳優のノート〈新装版〉 (文春文庫)

俳優のノート〈新装版〉 (文春文庫)

 

 目次*1

芝居のことはよく知らないが、山﨑努は特別な俳優だと思っていた。なんて書いてみたけど、調べてみると自分は山﨑努が出ている作品を、ろくに見ていないことがわかった。どこでどう特別だと考えたのか。窪塚と柴咲コウの出た『GO』だったろうか、テレビドラマの『世紀末の詩』でだろうか、それとももっと最近の『おくりびと』だっただろうか。判然としない。

この本は、1998年に新国立劇場のこけら落としとして上演された舞台『リア王』の、準備から終演に至るまでの半年間に渡る日記的記録であり、同時に、リア王を演じた62歳のベテラン俳優による記録的日記でもある。セリフの覚え方や、キャラクターや場面の膨らませ方、本番前の恐怖や、公演中の失敗といった劇の舞台裏が、孫の誕生、友人との死別、大雪の降る東京といった山﨑努という男の実人生のタイムラインとともに、ひもどかれていく。

これはさすがに大袈裟かも知れないが、この日記、「神話」と通ずるところがあるように感じた。

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どう言うかーーそんなことはどうでもいいのだ。上手くても下手でも、早くても遅くてもいい。演出家の趣味だって違う。/何を言うかーーそれはもう脚本家が決めてしまっている。/しかし、どこからセリフを言うのかーー虚から言うのか実から言うのか、痛みから言うのか喜悦から言うのか、死から言うのか溢れる生から言うのかーーこれこそが俳優の演技を分ける最大の稜線になる。山﨑の猛禽のごとき目はそこを捉えている。[解説 香川照之](p.367)

最初の引用は、著者の言葉ではなく解説から。熱量の高い文章だ。しかしただ熱いだけでなく、本文に書かれていない言葉を持ち込んで、新たな視点を加えることに成功している。「どこから言うのか」。なるほど、その通りだ。この山﨑努には、表面的なことを重要視するのではなく、存在の奥のほうから湧き上がるものを表出させようという狙いがあるように感じられるのだ。まぁしかし、それを「自己発見の旅」と表現するのは、どうだろう。「尊い」という形容を付けてみてはいるが、不満が残る。この目的語は本当は「宇宙的自己」であろう。それゆえ山﨑は、自己愛=家族愛を克服しようとするのだ。

 

演技すること、芝居を作ることは、自分を知るための探索の旅をすることだと思う。役の人物を掘り返すことは、自分の内を掘り返すことでもある。そして、役の人物を見つけ、その人物を生きること。演技を見せるのではなくその人物に滑り込むこと。役を生きることで、自分という始末に負えない化け物の正体を、その一部を発見すること。/効果を狙って安心を得るのではなく、勇気を持って危険な冒険の旅に出て行かなくてはならない。手に入れた獲物はすぐに腐る。修得した表現術はどんどん捨てていくこと。[七月二十五日 金曜日](p.52)

次は山﨑自身の言葉である。舞台の初日が翌年の一月なので、本番までまだ半年ある。そんな日の記述である。ここで山﨑は、外に出て行くこと、自分を空っぽにしていくことこそが「自己発見の旅」だと言っているようだ。俳優として、与えられた役は何でもありがたく拝受、全うできるように努力し、脚本を読むときは自分の役を中心に読むのではなく全体を理解することを心がけ、自分の役を楽しむこと以上に観客に物語を伝える、捧げることを目標にする。そのために大事なのは「テムポ」と「危険を冒す」ということ。言うまでもなく、守りに入ったら死んだも同然である。そういう信念が綴られていく。

 

当初から目指していた演技のダイナミズムが実現しつつあるように思う。感情のアクロバット。日常ではあり得ない感情や意識の飛躍を楽しむのだ。しかし、基本にあるのはあくまでも日常の感情だ。日常の感情を煮つめ、圧縮したものが舞台上の感情なのである。(中略)演技の修練は舞台上では出来ないのだ。優れた演技や演出を見て、技術を学ぼうとしても駄目なのだ。その演技演出はその人独自のものなのである。大切なものは自分の日常にある。[一月二十九日 木曜日](p.332)

二月三日の千秋楽直前。 今回の『リア王』のひとつの到達点に達しているところである。そこで演技の重要な奥義が開陳されている。当然だけど、それは演技だけでなくさまざまな表現に応用できる方法だ。続けて山﨑は「目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない」と書く。

そうなんだ。でも、それが難しい。

……ん、だけど本当にそうか? 

だって、難しいことをするわけじゃない。日常をするだけなんだ。

非日常に踏み出して、日常を照射する。そうやって意識をぐるっと円環させる。そうすると、それが活力エンジンになっていく。それができたとして、どうなのか。そこに人生の保証はないが、「特別な俳優」に倣えば、遠くまで行ける気がするだろう。

*1:

俳優のノート〈新装版〉 (文春文庫)

日記までのこと

日記
 準備
 稽古
 公演

あとがき

日記索引

解説 香川照之

【J・キャンベル】好きなことして生きてやるっ

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 目次*1

テレビ企画の対談を元にした定価1,000円の文庫本なので、ジョーゼフ・キャンベルが気になっている向きにはうってつけの味見本だと思う。というか、自分がそういう向きにあり、バチコン、よくはまったのだ。

で、感動納得して読み進めたのだが、話題があちこち飛び回るということもあり、読み終わった後に何が好きだったのかを取り出せないし、何に感動したのかも満足に言葉にできない自分に気付いた。こりゃいかん、ということでブログに書くことに決めた。

初読のマーキングが赤で、再読が青ということに(だいたい)なっている。人生を深く経験せよというのも、本書のメッセージのひとつだったが、やっぱり青色マーキングのほうが味わい深いものになっているよね。我ながら感心する。もしそうでないように見えたとしても、本当は深まっているんだ。深度というのは見えにくいものなのである。勘弁ください。

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神とは、人間の生命の営みのなかでも、また宇宙内でも機能している動因としての力、ないし価値体系の擬人化です。あなた自身の肉体のさまざまな力と、自然のさまざまな力との擬人化です。神話は人間の内に潜んでいる精神的な可能性の隠喩です。そして、私たちの生命に活気を注いでいる力と全く同じものが世界の生命にも活気を与えているのです。(p.78)

この本は、キリスト、ヤハウェ、ブッダを含む「神の話」全般についての本なのだけど、ギリシアの神々もインディアンの精霊もすべてをひっくるめて「神秘の隠喩」と言い切るところがベースとなっている。180億年前のビッグバン以来膨張を続けているこの宇宙のなかで、たまたま形成された地球環境で、束の間与えられた生を生きる人間が、自分たちについて考えてきたこと。さらには、世界中あらゆるところで無名の私たちが、神というものを措定して考え続けてきたことって、一体全体どのようなものだったのか。到達できた真理なんてものはあるのか。そういう、通勤電車での往復運動や人間関係の悩み事といった日常とは次元の異なる、しかしそんなサラリーマンな瞬間にまで通底している神秘というものがメインテーマである。

 

『ウパニシャッド』のひとつにすばらしい言葉があります。「ああすばらしい、ああすばらしい、ああすばらしい、私は食べ物、私は食べ物、私は食べ物! 私は食べ物を食べる者、私は食べ物を食べる者、私は食べ物を食べる者」私たちはいま、自分たちをそんなものだとは思っていません。あくまで自己保存に固執して、自分を食べ物にしない。それは根本的に生命を否定するマイナスの行為です。流れをせき止めているのです!(p.368)

人間の究極的な到達点は「自分のなかにあるよいものの全部を、自分のためにため込むのではなく、世界のために、生きとし生けるもののために与える心境」(p.438)である。だってそれは敵を愛するキリストの境地であり、他者のために現世に留まる菩薩と同じ精神性なのだ。そのステージは自分と相手とがある意味では同じ生命を共有している」(p.435)ということを自覚することによって開かれる。「思いやり」や「慈悲の心」を持って世のため人のために奉仕する。それが一生命体としての望ましい在り方なのだ。できるか。自分の死からは次なる生が生まれるということを、その新しい生命を信じられるのか。心底できたら、それは新たな処女降誕となる。

 

いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです!(略)必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきすることです。(p.315)

なんだい、世のため人のためじゃないのかい! 浅くはそう考える。しかし、自分が相手、世間、神と同一であるという宇宙的視座に立てば、まず何より、偶然に与えられている手持ちの身体をいきいきさせることが先決ということもよく理解できるだろう。いきいきするために何をすべきか。まわりの連中の意見ばかり聞くのをやめて、自分の心の声を聞くことだ。言い替えれば、自分で個人的な選択をするということ。自らの覚悟があれば、人は地獄の苦しみすら喜ぶことができるのだ。問題は、それに耐えてやっていけるかどうか。心配が大きいようなら、英雄伝説にあたるといい。生の喜びを取り戻すには死の恐怖の克服が必要だということを、英雄の勇姿から学ぶだろう。

「成りつつある生は、常に死の恐怖を脱ぎ捨てつつ、死の直前にある」(p.322)

*1:

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

編集者からのごあいさつ

まえがき

第一章 神話と現代の世界

第二章 内面への旅

第三章 最初のストーリーテラーたち

第四章 犠牲と至福

第五章 英雄の冒険

第六章 女神からの贈り物

第七章 愛と結婚の物語

第八章 永遠性の仮面

訳者あとがき

【今村仁司】まったくヒラヒラしていない貨幣論

 

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

 

目次*1

お金のことは、昔から信用していなかった。モノの価値を体現しているつもりだろうが、「ほんとうの価値」との間にはビショ濡れシャツの不快感と同じくらいの齟齬がある。それなのに、そんな出来損ないの代理物が我が物顔で社会にのさばっているのが気に食わないのだ。

しかしあるとき、まぁラブストーリーでは定石だが、苦手意識の内には発芽チャンスが眠っているということを学び、自分はお金なるものをとても嫌っているので、そこをほじくり返してみようという考えになった。本書を手にしたのもそういう経緯からだった。今村先生の本なのだから、痛快だろう。表紙を見てみると、ちくま新書の第一冊目のようである。やるな筑摩書房。そういう気分で読みはじめた。

 

「貨幣の社会哲学的考察は、貨幣が社会関係のなかで果たす役割を考察するのはもとより、それ以上になぜ貨幣なるものが人間の社会関係のなかで生成するかを考える、いやむしろなぜ貨幣は人間関係の不可欠の媒介者になっていくのかを考える」(p.17)

貨幣とは何か。この問いに、経済学がやるように貨幣の素材や機能面から考察するのではなく、その存在の意味を問うという「哲学的」アプローチをとる。経済学が(価値尺度、支払手段、価値蓄積などと)貨幣の利便性をカウントしていくのに対し、この本は貨幣存在によって見え難くなっているもの、社会が封印しようとしているものを明かそうとする。そのやり方をあるいは、「貨幣を人間存在の根本条件から考察する」とも説明する。やはりこの貨幣、まったくヒラヒラしていない。ズシリと重い。

「人間が社会的存在であること(他人とともに生きるほかないこと)と、交換し貨幣を生み、また貨幣によって交換が複雑になること(制度化すること)は、同じことである。はしょっていえば、人間であることと、貨幣が存在することは、同一の事柄である」(p.68)

貨幣の利便性を裏返してみれば、「制度になった媒介形式がなければ人間の社会関係はけっして円滑には進行しない」(p.84)ことが見えてくる。不足があるから発達があるのだ。ルソーは媒介者を嫌悪したし、マルクスも媒介形式なき共同体を夢想したが、所詮、天使のいない我々の世界では、貨幣廃棄論の実践は数えきれない屍体の山しか築けていない。そういう意味でも、貨幣が人間を人間たらしめているのである。

「人間は、原初の距離化から生まれた死の表象を、物あるいは制度の形で外部化して、生と死の『近さ』の恐怖から解放されようとしてきたのである」(p.53)

動物にはけっしてないが、人間だけにあるものとは何か。それは死の観念である。「死の観念」を原初において距離化したのが人間である。死の犠牲を払って痛い目をみると人間は、デモーニッシュな混沌カオスを、理性的ノモスでコントロールして、コスモスを作り出そうとする。貨幣という制度、媒介形式が生まれたのもそのためである。だから、それが不完全で気に食わないといって、ノモスを無視しようとする者があれば、カオスがコスモスに滲み出してきて痛い目をみるのだ。

媒介形式としての貨幣は魔封波のお札に似ている。思い切ってそう言ってみる。ふむ、しかし、その喩えを良しとするなら、僕らが日々交換しているものは何になるだろうか。かめはめ波的世界観、またはペンギン村の日常とでも言うだろうか。

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*1:

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

第一章 貨幣と死の表象
 1 人間と動物
 2 貨幣の社会哲学
 3 媒介形式と死の観念
 4 本書の見取り図

第二章 関係の結晶化ーージンメルの『貨幣の哲学』
 1 貨幣の哲学的考察の意味
 2 距離化と貨幣
 3 文化の形成力としての貨幣
 4 ジンメル貨幣論の特質

第三章 貨幣と犠牲ーーゲーテの『親和力』
 1 貨幣小説について
 2 媒介者
 3 墓をいじること
 4 関係の解体
 5 罪なき犠牲
 6 デモーニッシュなもの

第四章 ほんものとにせものーージッドの『贋金つくり』
 1 父(ペール)あるいは父権(パテルニテ)
 2 子供たち
 3 文学における貨幣

第五章 文字と貨幣
 1 文字と貨幣
 2 ルソーの文字論
 3 言語起源論について
 4 距離化
 5 文字の根源性
 6 文字と死

エピローグーー人間にとって貨幣とは何か
 あとがき
 参考文献

【poster child】里子という意味ではありません

英語の勉強の練習に、わからない英語表現だとか、英語の失敗をコレクションしていく。これなら(残念なことに)ヒジョーに簡単に、ブログ記事のネタを見つけることができるし、晒すことで覚えることもあるだろうからだ。

まずはネタ探し。ハフィントンポストのこの記事を読んでみた。

On the Brink: Surviving as a Single Mom in America | Beth Leyba

タイトルの「On the Brink」からしてよくわからんが、ここでつっかえていては記事が読めないのでスルー。いま調べたら「瀬戸際」というような意味らしい。へー。

この記事を選んだのは、サイトの上のほうにポストされてたということと、昨年子供が生まれて「仕事との両立は大変だなー。シングルマザー(シングルファザー)なんて考えられん!」と思っていたから。

で、読んでみるとこんな書き出しになっていた。

I had aspirations and potential when I was fresh out of high school in 1997. 

おっとと。いきなり「aspirations」も知らない単語だ。アスピリンやアスパラガスとは違うようで困った。まぁ、でも自慢げな前後関係から「明るい未来が待っているはずだった」的な何かだろうとわかるから、これも飛ばす。いま調べたら「大志」というような意味らしい。へー。

そんな具合いに誤魔化しながら読んでみて、市長さんから突然連絡が来るくだりもよくわからなかったけど、なかでも特に意味不明だったのがココ。

I am the poster child for why abstinence only education does not work. 

 大学二年のときの初めてのセックスで妊娠したという場面。「the poster child」というのを「foster child」と勘違いして、「わたしは里子だから、なんたら教育は効果がなかったのだ」というような意味かと思ってしまった。

が、「poster child」というのは、「シンボル、イメージキャラクター◆見本や広告のポスターに見られるような、見本そのままの子ども、申し子」(アルク)ということらしく、元々はなにかの病気や困難に対してのサポートを求めるポスターに使われた子供たちのことを指したらしい。

さらに「なんたら教育」というのは、「自制オンリー教育」ということらしく、アルクには「成人になるまでセックスしないよう教える性教育カリキュラム◆米国の中高等校の」とある。

さらにもうひとつ勘違いしていて、「for why」は、「for which」的な「〜だから」なんて意味ではなくて、ここでは「〜のイメージキャラクター」ということだろう。

よってあの文章は、「わたしは、アメリカの学校で教える自制オンリー教育は役に立たないということのイメージキャラクターなのである」ってなことだったのだ。多分。

あー、わからないことだらけで、思ったより長くなってしまった。

アマゾンで、同じような冗談をタイトルにした本を発見。「お前は、避妊を広めるためのポスターチャイルドなんじゃないのか?」だって。ひでぇ。

 

Aren't You The Poster Child for Birth Control?

Aren't You The Poster Child for Birth Control?

 

 

【内田樹】トクヴィルに向けて書いたアメリカ論

『街場のアメリカ論』内田樹(文春文庫)

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目次*1

アメリカに住むことになり、なにか興味のとっかかりを得られないかと思い、サンフランシスコの紀伊国屋でこの本を手にしました。

「ファーストフード」「シリアルキラー」「肥満問題」などの現代的問題を扱いつつ、19世紀フランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィルを背骨に持ってきているのが特徴的です。1831年から半年間かけてアメリカをまわり、1835年に大著『アメリカにおけるデモクラシーについて』を発表。180年前、トクヴィルが30歳のときに書いた著作ですが、いまなおアメリカを考えるときに欠かせない重要文献であり続けています。すごい。

以下、内田氏が引用したトクヴィルの言葉を中心に、本書のハイライトを形成してみます。

「個人よりも多数の集合に開明と英知とがあり、その意味で、立法者の数がその選択(の結果)よりも重要だと考える」(p.117)

『独立宣言』にも表れているように、アメリカはイギリスからの支配を脱して、新しく「理想の国」を設計してスタートした国です。そこでは、「性悪説」の上に官僚制度が作られていて(日本は性善説)、間違った統治者が選出されても破局的な事態にならないように制度化されています。これは、「少数の賢者が支配するシステム」ではなく、「多数の愚者が支配するシステム」を選んだということです。

「アメリカの人々には隣国がない。その結果、大きな戦争も、財政的な危機もなく、侵略や征服を恐れることもない。……人民の精神に軍事的栄光が及ぼす信じえないほど強い影響を、どうして否定しえよう」(p.109)

アメリカは歴史のない国だったので、他国以上に戦争の物語化に情熱を傾けました。そのため、統治者には伝説化した軍功の持ち主を選ぶようになり、他方では、自国の戦争被害を過大評価し、自国民の死者のためには必ず報復に出るという傾向を持つようになりました。また、過去の成功体験から、戦争をしないことより戦争に勝つことのほうが、同盟国を増やすには効率的であると考えている節があります。

アメリカの聖職者の達観:「政治的な力を得たいと思うなら、宗教的な影響力は断念しなければならぬと悟って、権力と運命を共にするより、権力の支持をうけないほうがよい」(p.225)

大統領はこれまでプロテスタントとカトリックに限られているし、裁判では『聖書』に手を置いて宣誓することが義務づけられているなど、アメリカはとても宗教的な国です。アメリカはそもそも、英国国教会の弾圧を逃れて「新しいイスラエル」を築くという宗教的動機によって建設されたので、その出自を考えれば当然とも言えますが、トクヴィルは、アメリカ社会が(過剰なまでに)宗教的であり続けるのは「アメリカが完全な政教分離を果たしている」からだと考えました。宗教が特定の政治勢力と結ぶことを止め、すべての政治勢力に等しく祝福を贈ることで、その霊的威信の保証人の座を永続的に保持していると考えたのです。

   *   *   *

内田センセイの文章は、軽快で読みやすく、内容も多角的で信頼のおけるものでしたが、最初から本のタイトルが示していたように、ここで論じられているのは外から見たアメリカでした。「そうそう、なるほど」と随所で得心し、アメリカに対する理解は深まったのですが、これじゃ「アメリカに住みたい!」とは思えないし、楽しんで生きていくための役には立ちそうにない。そういうわけで、すごく役に立ったわけです。どうやら、今のぼくに必要なのは、内側の一点から立ち上げていくようなアメリカ像のようだ、と。

 

街場のアメリカ論 (文春文庫)

街場のアメリカ論 (文春文庫)

 

 

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

 

 

*1:☆ まえがき 自立と依存

第1章 歴史学と系譜学ーー日米関係の話
第2章 ジャンクで何か問題でも?ーーファースト・フード
第3章 哀しみのスーパースターーーアメリカン・コミック
第4章 上が変でも大丈夫ーーアメリカの統治システム
第5章 成功の蹉跌ーー戦争経験の話
第6章 子供嫌いの文化ーー児童虐待の話
第7章 コピーキャッツーーシリアル・キラーの話
第8章 アメリカン・ボディーーアメリカ人の身体と性
第9章 福音の呪いーーキリスト教の話
第10章 メンバーズ・オンリーーー社会関係資本の話
第11章 涙の訴訟社会ーー裁判の話
☆ あとがき/文庫本のためのあとがき/註/解説 町山智浩