保険が適用されないのは貧乏外人だからだという説
それはもう、三回伝えましたよ?
それでも伝わっていません。
相手が阿呆なんでしょうか?
そうです。相手が阿呆なんです。すでに三回も伝えているのに、自分のほうが正しいと思い込んだまま行動して、結局間違った結果が生じてしまっているのですから。
先日、歯医者を新規開拓したのですが、これが大外れでした。
歯には特に異常を感じていなかったので、定期検診と、日本に帰る前にクリーニングをして、溜まっている歯石を除去してもらいたかったのですが、そういう基本的なことをやることができない歯医者だったのです。
通常のクリーニングをしてくれないことに関しての文句は、すでに書きました↓
今日は、その歯科医がようやく私の保険会社に診断に関わる保険金請求(クレーム)を行ったのですが、その結果、保険会社が私に対して395.80ドル(4万円以上)請求してくるという狂ったことになっていたので、私は怒り心頭だったのです。
は?
です。怒るとボキャブラリーが少なくなる私は、「は? 何考えてんの?」と言いました。
まず、この請求スタイルが心底憎たらしいです。事前説明なしに適当な診断をして、当日はゼロ円、だのに後日高額な請求書を送りつけてくるという、このくそったれのやり口が憎い。体のいいぼったくりじゃねぇか。
怒りに任せてすぐに電話しようとも思ったのですが、実はセカンドオピニオンを得るために(別の歯医者に通常のクリーニングをやってもらうために)、明日別の歯科医に行く予定がありまして、そちらにレントゲン写真を送ってもらうというお願いをする段だったので、ひとまず怒りを噛み殺して、請求にはまだ気づいていませんという体で電話をして、「あのーすみません、先日撮った私のレントゲン写真をこちらの歯医者さんに送ってもらいたいのですが」というやりとりをしてきました。
レントゲン写真代は、私の安い保険プランでは、5年に一度しか保険でカバーしてもらえませんので、これをやってもらわなければ、全額自腹ということになってしまうのです。
背に腹は代ええられませんでしょ?
私は精一杯、大人の対応をしました。
で、この間、妻にもこれらのことを愚痴っていたのですが、夜になって妻と話してみたら、どうもこれは、私が思っていたようなぼったくり行為ではなくて、この歯医者のアドミンがバカなので、私の保険プランを誤って理解しているために、保険会社に誤った申請を行い、当然のようにほとんど拒否され、まるまる私に降りかかってきたという構図になっているということが判明しました。
私はそれがわかったときは、安堵しました。
私をカモにしようとするヘンテコな知識武装した相手とやり合わなければならないのだとばかり思っていたのですが、そうではなくて、相手は単なるおバカさんで、そのバカが間違いを犯したことでこういうことになっているという、その認識フレームのシフトは、大いに私を安堵させました。
それなら、本当はこうこうこうあるべきで、やり直してくださいと説明して納得させればいいだけです。
相手にチョンボがつきますが、間違っているのだからしょうがありません。間違いが判明したら、修正するしかないはずです。
ただし、私は、妻と話して、これを私から伝えるのではなく、この話には直接的に関係のない妻から伝えてもらうことに決めました。
だって、これまでも、
それはもう、三回伝えましたよ?
それでも伝わっていません。
というところだったからです。
妻の言葉を借りると、「言葉にアクセントがあると相手は十分真剣に取り合わなくなる」からです。
これです。
しかも今回は、受付スタッフがバカなので、こういう人間一般の愚かな傾向に余計に拍車がかかります。
悲しいことですが、自分にも思い当たる節があるので、簡単なことではないんですよね。
そういえば昔、バイト先に、ヒョンちゃんという女性がいました。自分よりちょっと年上の、たしか韓国人の女性だったと思います。日本語を流暢に喋る頭のいいひとでした。
でも、ちょっと抜けたところもあって、かわいいところもある人でした。
それが彼女の本来のキャラクターだったのかもしれませんが、もしかしたらアクセントのある日本語(ありがとうごじゃいます、とか)の印象から派生的に生じたものだったのか、今考えると定かではないところがあるのです。
もっと言うと、二十歳前ぐらいだったでしょうか、若かった自分の彼女への評価がアンフェアだったなという後悔がずっと心の底にわだかまっているというのが本当のところなのです。
だから、アクセントのある言葉を喋る人へのアンフェアな評価を下す人間の習性に対して、単純に弾劾する気持ちにもなれないのですが、評価を受ける側の立場に立ってみると、これは精神的につらいものであると、そういうことを実感したのでありました。
ここのところが、先日の日記に書いたことの裏張りだったのだと気づきました。
第二言語を話して異国で生活するのは、まるで重力の重すぎる世界に住んでいるみたいなことなんだと。
しかも私、童顔ですし、
しかも私、貧乏人なので、
どよーーん。という感じですよ。
そういえば昔、このタイトルにつられて、なんとかがんばって読破したのでしたが、最後まで楽しめない小説だったのでした。
しかし、現在の、言葉による、外見による、市場価値による自己存在の軽さを痛みとして実感している現在の私には、より深いレベルで味わうことができる小説になっているかもしれません。
どうなんだろうか。
まぁ、そういうことです。
ひとまず英語の発音がうまくできるようになるように、がんばっていくしかないですね。ほかのふたつはもっと大変なので。
でも、8年も英語で生活してきていますから、ここからどうやってやっていけばいいものか、ちょっと途方に暮れているところです。
外科手術とかでできればいいのだけど(保険がしっかり適用されるようであれば)。